
米価歴と戦後80年(令和7年7月23日)
私は昭和20年当時、16歳の学生で、当時の実情を実感しているのは皆様も同じと思います。今思うと働ける人は少なく、老父母と嫁さんで家族を守り、男まさりの力仕事が必要でした。作物に施す肥料もなく人糞だけ、また、農耕馬として飼っていた馬は戦地に供出され、自力で耕すほかなく、辛抱、辛抱の日々でした。終戦直後は、戦地からの復員や疎開等で各家庭では急に大家族となり、食料不足と混乱が重なりました。昭和21年には米価が220円となり、農地改革法や農地調整法、農業協同組合法が公布され、昭和27年には米価が3,000円となり、当時の水田の価格は1反当たり3,000円で米価と同額となったため、各地で田畑の開墾が盛んになり、活気と自活の暮らしとなってきました。
この頃から、高度な化成肥料と改良稲作と精度の高い農業機械等で収穫が増えて米価は3,900円、家庭電化時代の到来とともに、昭和36年には農業基本法が成立し、米価は5,600円に昭和44年には減反政策が始まり、昭和46年には8,631円と高価格になりましたが、減反政策が実施されてから23年間も継続され、山間地ほど転作できなくて原野が多くなり、残念な思いです。
私が心にしていたことは、湿田地の毛萱のドブ田を改良し、近代農業ができるような圃場になるように友達と話し合いを重ね、地域の方々の理解と協力があり、平成5年に「毛萱地区モデル担い手育成基盤整備事業」が完工し、今では担い手の皆様が大型農業機械で働く姿がたくましく、感動と感謝の心でいっぱいです。
結びに、工事完工の歓びは偶然ではないと思っています。過去の苦難に満ちた水田の小さな種が時間を掛けて発芽し、実を結んだ結果であり、その喜びは、皆様の結束の印だと信じています。この耕地を守ってくださるよう切にお願いいたします。


2025.8.6 |
|
---|---|
2025.1.2 | 年回表の間違いを掲載しました。
|
2022.12.17 | |
2022.11.16 | |
2022.3.21 | |
2022.3.18 |
2014.5.21 |
---|